タクアンログ

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理解の本質

タクムです。

 

昨今ではSNSの普及により、様々な意見を容易に閲覧することが……なんていうのは、皆様にとっては分かりきったことでしょう。

 

しかし、そんな無数の意見の中には、自分と相容れないものもあったりします。例えば「自分は好きな作品なのに、ある人はそれをボロクソに貶していた」なんてのは、普遍的に経験することではないでしょうか。特に、特撮やアニメに触れる機会が多い人にありがちな話だと思うわけですが、これが今回の記事の内容に関わってくるんですよね。

 

すなわち、「作品に対する理解の本質」について。この話、かなり主観的なものになります。個人の思想的なものだから、仕方ないことではあるんですが。

 

さて、いきなり核心から入ります。僕は、理解の本質というものの対極に位置するのは、「一元的な見方」だと思っています。ある人が、「この作品のこの部分が嫌い!」「この作品のこの演出はなってない!」とTwitterなどで表明するとします。ここまでストレートな文章はあまり見かけませんが、内容としては同じような文を目にする機会はそこそこあるでしょうし、それで納得できることもあります。しかし、僕としてはちょっと待てよ、と言いたい。この人は、果たして槍玉に上げられている作品の、ほんの一部しか見ていないと思うのです。

 

確かに、その部分は悪かったかもしれないし、その演出は褒められたものではないかもしれない。しかし、影あるところ光ありです。余程の場合でない限り、かならず称賛に値する箇所があるはずなんですね。「この作品のこの部分が嫌い、でもこういうところは好きだ」「この作品のこの演出はなってない、しかしその次の演出には唸った」、こういう見方も出来ると思うわけです。

 

そして、これは逆もまた然りです。肯定の意見ばかり出すのも、それは理解から離れていると言えます。作品には評価すべき部分と批判すべき部分とがあります。その見極め、内容の取捨選択はしっかりと行うべきでしょう。

 

もう一つ、理解の本質からかけ離れた行為があります。それは、自分と意見が合わなかった人を否定することです。

 

仮定の話として、「能面ファイター」という架空の特撮ヒーローシリーズの中の一つ、「能面ファイターX」という、これまた架空の作品で例えていきましょう。この能面ファイターXという作品は、これまでのシリーズよりも先進的で斬新な演出、極端に整合の取れたシナリオで多大な人気を獲得した一方、それらの評価点が逆に批判されたり、一部キャラクターの言動にヘイトが集まるということにもなりました。僕はたまたま、二つの批判派の意見を目にします。

 

A.「この作品は確かにシナリオに破綻はなかった。しかしながら、それは破綻がなかったというだけで、面白いというわけではない。戦闘に関しても、これまでのシリーズでは火薬を多く用いた迫力のあるものだったが、この作品ではCGに頼りすぎて、戦闘に臨場感が欠けていた」

 

B.「この作品を支持している奴は、能面ファイターシリーズのファンとは呼べない。何も考えず、周りの意見に同調して褒めているだけ。監督や脚本家はシリーズが好きだと言うが、好きならばこんな作品を作ろうとは思わない。この作品は、能面ファイターとは認められない」

 

どうでしょう。もちろん個人差はあるかと思いますが、大多数の人はAの意見の方を尊重すると思います。Aの意見とBの意見の大きな違いとして、「作品の内容に明確に触れているか否か」があります。Aの場合、どこが合わなかったのかが明確ですよね。理解の本質に近く、納得する人も多いと思います。しかしBはどうでしょうか。作品の内容には触れず、ファンや製作陣を貶していますよね。これでは、作品の正当な批判とは呼べないのではないでしょうか。

 

理解の本質の対極にあるのが、Bの意見のようなものです。作品ではなく、作品のファンを愚弄する。「自分には合わなかった」で済むものを、製作陣やファンに擦り付け、理解者を気取る。僕は、こうした論調がまかり通ってはならないと思っています。例文では比較的マイルドな物言いに終始していますが、実際に目にした意見の中には「障害者」という単語を、差別的な意味で使っている人もいました。

 

作品に対して、幅広い視点から、完璧とは行かずとも、なるべく平均的な視点から理解しようとする。これこそが、僕の考える理解の本質です。否定だけでも、肯定だけでも理解したとは言い難い。その二つを柔軟に使い分け、最後に下す評価こそが、本質的な評価に繋がるのではないでしょうか。